義母の山口潤子が、
肉体を離れ、光の世界へと帰って行きました。
翌4日には、本人の生前の意向により、
近親者のみで、葬儀を執り行いました。
生前、山口潤子ならびに集合人編集局をお引き立てくださっていたみなさまに、
謹んでご報告させていただくとともに、
ここに、これまでのご愛顧を深く感謝申し上げます。
これまで、本当にありがとうございました。
かねてより闘病中であった義母は、
ずいぶんと前から、
「死への恐れ」や、あるいは「生への執着」を見事に手放し、
はたから見ていると、ビックリするほどに、
日々、淡々と生活していました。
『闘病』という言葉は、
義母には、まったくふさわしくありませんでした。
そして、
「津留さんのメッセージを伝えること」
を、文字通りに、使命・生きがいとし、
最後まで、集合人編集局の仕事を行っていました。
2月の半ばに、
僕の末の娘が、1週間ほど緊急入院するという、
不測の事態が起こりました。
その間、妻が付きっきりで娘に付き添っていたため、
義母の面倒を見られない日が続きました。
その期間中に、義母の定期検診日があったのですが、
その際に、義母の方から、担当医に対して、
入院を希望する旨の要請をしました。
義母は、診察室へ入るなり、開口一番、
「先生、痛くて死にそうです!」
と言いました。
そして、入院希望の理由としては、
「身体の痛みがひどくなり、もう耐えられない」
「痛いのだけが、もうイヤだ」
と、言っていました。
おそらく、本心だったことでしょう。
ただ、横でその様子を見聞きしていた僕には、
それだけが理由なのではないように感じられました。
「孫が大変なときに、自分のことで、なるべく負担がかからないようにしたい」
そんな気遣いがあったのだと想います。
そんな、優しい人でした。
亡くなる直前に、妻から聞いたのですが、
義母は、娘が入院する際に、
「『孫の代わりに、私の命を取ってください』ってお祈りしたのよ」
と言っていたそうです。
娘を連れてお見舞いに行き、元気に退院できたことを報告した時には、
本当に、嬉しそうに、こころから喜んでくれていました。
ただ、入院と共に、
義母の具合は、急激に悪化して行きました。
22日の津留さん誕生日記念の交流会には参加してくれて、
津留さんの思い出話でもしてもらえるのではないかと
想っていたくらいだったので、
ほんとうに残念です。
入院により、身体を動かすことが激減したことが大きかったのではないか、
と、個人的には思っています。
そして、約2週間の入院生活の後、
最期は、穏やかに、安らかに、
ロウソクの炎が燃え尽きるかのように、
息を引き取りました。
70年の生涯でした。
これまで、義母が心血を注いで行って来た集合人編集局の仕事は、
これからは、妻と僕で、引き継がせていただきます。
皆様におかれましては、引き続き、
ご愛顧をたまわれますよう、よろしくお願い申し上げます。
お義母さん、これまで、ありがとうございました。
そして、おつかれさまでした。
これからも、これまで通り、どうぞご指導ください。
津留さんのメッセージを多くの方々にお伝えすること、
そして、みなさんが少しでもこころを軽くし、明るくし、
楽しく楽に生きていかれるお手伝いをすることに、
努めてまいります。
どうぞ、津留さんといっしょに、見守っていてください。
そして、どうぞ、そちらの世界で、ごゆっくり、休まれてください。