今日は、
津留さんの命日。
亡くなって、16年が経つので、
ちょうど、
「17回忌」ということに、なりますね。
当時をご存知の方には、
時の経過というものに、
感慨深いものがおありなのでは、
と、推察いたします。
さて、昨日は、
津留さんの命日を前に、
津留さん交流会を行いました。
そして、今日は、
募集していた、個人セッションへの、
お申し込みがありませんでした。
そんな流れから、
昨夜、妻と二人で、
「じゃあ、津留さんのお墓参りに行こうか」
と、話していました。
ところが、
今朝、起きてみると、
屋根を激しく叩きつけるほどの、
雨
(天気予報を知りませんでしたので、
ビックリしました)。
しかも、
朝のうちに、終わらせるべき用事が、
雨ということもあり、
予定より、長引きました。
午後からは、
別の用事があったため、
その前に、
お墓参りをしようかと、思っていたのですが、
そんなわけで、
どうも、時間的にも、
そして、天候的にも、
どうやら、できそうもありません。
「それじゃぁ、まあいいか」
と、いうことに、なりました。
そのとき、
津留さんが、
「私は、お墓には居ません」
と、
言っているように、思いました。
確かに、そのとおり、
ですよね。
でも、
僕は、
津留さんのお墓に行くと、
何か、普段は、漠然と感じている、
「津留さんへの、感謝の気持ち」のようなもの
を、
より、明確に、認識できるように感じます。
「津留さんという存在」
を、
より、はっきりと、感じられるような気がします。
この活動をしている上で感じる、
自信の無さや、戸惑い、不安
といったものを、
なにかスッキリと、させることができます。
僕にとって、
津留さんのお墓に行くことは、
「僕にとって」、
気持ちよく、楽しく、ありがたいことです。
なので、
そのうち、天気のいい日にでも、
お墓参りに、行ってこようと思っています。